参考:Wikipedia 関連記事: 豊臣秀吉と明智光秀の関係はライバルか仲間か?二人の関係性を検証 関連記事: 豊臣秀吉によるバテレン追放令の内容とは?戦国時代のキリスト教事情 日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。【好きな歴史人物】勝海舟、西郷隆盛、織田信長【何か一言】日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
豊臣秀吉公は、私の地元でも信長公・家康公とあわせて「3英傑」と言われる人である。しかし、印象が悪い人が多いように思う。「キリシタン弾圧」「朝鮮出兵」など「切り取られた歴史」により評価を下げられている人の一人と思う。「キリシタン弾圧」の真実を追った。是非、ご覧を。 1.豊臣秀吉の「バテレン追放令」は「国民保護」のためであり「迫害」ではない! 「 豊臣秀吉 」と聞いて、どのように感じられるだろうか。私の地元 愛知県で言えば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は地元の「 3英傑 」として英雄視されている。 そしてその功績は間違いない。 豊臣秀吉公 しかし一方で、秀吉というと、「 キリスト教弾圧 」の印象を持っている人が多いのではないのだろうか。そして「 朝鮮出兵 」もあったことから、 特に「悪い印象」を持つ人も多いと思う。「秀吉は侵略戦争をした」と名古屋の地元の人でも言う。 しかし、そこにはまったくの隠されている真実がある。結論から言えば、 秀吉公は闇雲に「キリスト教の弾圧」をしたわけでもなければ、ましてや「侵略戦争」など、まったくしていなかった。国家・国民を考えた上での重要な「外交手段」であった。むしろ、非常に自制的にかつ、日本という国家を守る上での決断としての行為であった。 あまりにも誤解が多すぎる「豊臣秀吉公」の真実を「バテレン追放令」を通じて、詳しく見ていきたい。 2.「バテレン追放令」の内容から見える当時の状況 一番はっきりするのは「 バテレン追放令 」そのものを見るとよく分かる。 正直、まったく「ぬるい」ものであり、 キリスト教の布教の禁止が目的などとはまったくの間違いであることは文面を見るとよく分かる 。もっと言えば、正確には 「キリスト教の禁止をしていない」 !
王権の生産 最終章 | メイン | 「縄文体質を切開する」3)縄文時代の集団はどうあったのか? 2010年04月12日 鎖国とはなんだったのか?~鎖国政策の原点、秀吉のバテレン追放令を読む 前回は、幕藩体制=参勤交替が、江戸時代の安定的な経済発展の基盤になったことを紹介しました。もうひとつ、江戸時代の安定的な経済発展の基盤として重要な仕組みが鎖国です。今日は、何故日本は鎖国したのか?鎖国によって日本経済の仕組みがどのように変わったのか?について考察してみたいと思います。 ● 日本は何故、鎖国を選択したのか?
バテレン追放令とは。意味と概要を解説 1587年7月24日、現在の福岡県にあたる筑前国箱崎で、豊臣秀吉が発令した「バテレン追放令」。キリスト教の宣教と、南蛮貿易に関する禁制をまとめた文書です。 バテレンは漢字では「伴天連」と書き、ポルトガル語「神父」を意味する「パードレ」に由来しています。当時はカトリックの宣教師たちを指していました。 バテレン追放令を起草したのは、豊臣秀吉の主治医だった施薬院全宗(やくいんぜんそう)。「言ふところ必ず聞かれ、望むところ必ず達す」といわれるほど、秀吉から信頼されていた側近です。 バテレン追放令の原本は、旧平戸藩主である松浦家の史料を収蔵した「松浦史料博物館」に所蔵されている、『松浦家文書』内の5ヶ条。しかし1933年に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』内にある11ヶ条の文書を含める場合もあります。2つの文書には、条文の数だけでなく内容にも相違点があり、現在もさまざまな議論がされている状態です。 秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか?その目的は?
関連記事: 【高杉晋作と伊藤博文の共通点】幕末テロ兄弟の絆 絶対に河豚を食わなかった山県有朋 伊藤博文と仲が良く、自身も内閣総理大臣を務めた 山県有朋 ( やまがたありとも) ですが、彼は伊藤とは正反対で、下関に居た時にも、絶対に河豚を食わなかったそうです。 山県は非常に慎重な性格で、少しでも命の危険がある食べ物は回避していたそうで、親分の 高杉晋作 ( たかすぎしんさく) が「ちゃんと毒は取り除いてある」と食べながらいくら説得しても、「万が一の事があってはいけない」と頑なに河豚を食べようとはしなかったとか… そのお陰で、大将11年(1922年)まで生きて84歳の天寿を全うした山県有朋ですが、山県じゃなくて伊藤が総理の時に下関に来てもらった春帆楼は幸運でしたね。 関連記事: 徴兵!近代を背負った成人達の右往左往 関連記事: 徴兵制度とはどんな制度? 富国強兵を目指した徴兵制度導入の目的とは しぶとく続いた河豚禁止令 しかし、河豚禁止令は、その他の地域では厳重に守られ、兵庫県が大正7年(1918年)、大阪府が昭和16年(1941年)に河豚禁止令を解除します。ところが長い間、河豚の食用・調理にあたっての条例はなかったようで、1948年に大阪府が制定した「ふぐ販売営業取締条例」が最初のようです。 つまり、それ以前には河豚の調理については、料理人に一任されていたという事のようで、そう考えると、政府としては禁令を出しておいた方が無難だったのでしょうか? 関連記事: 藩札とは?江戸時代に発行されたローカル紙幣の不思議 関連記事: 楠瀬喜多生誕 183 周年世界で3番目に女性参政権を勝ち取った土佐の女傑 日本史ライターkawausoの独り言 さて、バテレン追放令に連なる禁教令は、1873年(明治6年)2月には解禁されましたから、河豚禁止令の寿命はそれよりも地域によっては半世紀以上も継続した事になります。禁令を出した豊臣秀吉も、まさか河豚禁止令がこんなに長く守られるとは考えていなかったでしょうね。 参考:Wikipedia 関連記事: 豊臣秀吉の晩年の奇行はウェルニッケ脳症の後遺症だった? 関連記事: 牛肉たたき禁止!肉食禁止令はいつから始まった? 関連記事: 戦国時代の庶民は天皇や幕府についてどう考えていたの? 日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。【好きな歴史人物】勝海舟、西郷隆盛、織田信長【何か一言】日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
両親も生まれた年も記録に残らないような、身分が高くない家に生まれた豊臣秀吉は、自分の才能と行動力だけでのし上がり、遂に天下人を手に入れる、輝かしいサクセスストーリーの持ち主です。 「元祖下剋上を成し遂げた男」それが、豊臣秀吉なのです。 人の心を掴むことがうまかった 豊臣秀吉は、人の心を掴むことが、非常に上手だったと言われています。 人を味方につける力が強かったというわけです。 織田信長に献身的に仕えることで信頼を得たり、部下の失敗を寛容に許すことで忠誠心を勝ち得たり、お金を使ったりと様々な方法で、相手の心を掴んでいきました。 情報収集力が非常に長けていた 豊臣秀吉は、情報を集める力も非常に長けていたと言われています。 本能寺で織田信長が亡くなったことを、次の日には、遠く離れた高松にいる豊臣秀吉が把握できています。 豊臣秀吉の情報収集に貢献していたのが、軍師の黒田官兵衛といわれています。 指が六本あった 豊臣秀吉は、生まれた時から右手の親指が一つ多く、六本の指を持っていたとの記録が残っています。 先天性の多指症だったのかもしれませんね。 あだ名はサル?はげねずみ? ドラマや小説などで、豊臣秀吉を織田信長が「サル」と呼んでいるイメージがある方も多いのではないでしょうか。実際、朝鮮の使者の記録では、豊臣秀吉はサルに似ていると記載されたものもあるようです。 肖像画もサルに似ているので、「サル」というあだ名は納得できるかもしれません。 織田信長は豊臣秀吉を「はげねずみ」と称した記録も残っています。 それは、豊臣秀吉の妻の寧々に織田信長が送った手紙の中に書かれていました。 「サル」も「はげねずみ」もあまり嬉しくないあだ名ですね。。。 まとめ:豊臣秀吉は天才的な人身掌握と情報収集力で、農民から天下統一を成し遂げた「元祖下克上」だった 豊臣秀吉は、人心掌握と情報収集力に長けた優れた才能を持つ人物であったことが分かります。 そして何よりも、大きな野心を持ち続けていたことが、天下統一を成し遂げた一番の要因だったのではないでしょうか。 今回の内容をまとめると、 仕えていた織田信長の跡を継ぎ、天下統一を果たした 日本だけでなく、中国(明)も手中に修めようとした 太閤検地や刀狩り、バテレン追放令などの政策を行った 茶道を文化として発展させた 人心掌握と情報収集力に長けていた サルやはげねずみといったあだ名があった 貧しい農民の出から天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の人生を知ることは、現代に生きる私たちにとっても生きるヒントをくれる気がしますね。
6/8 15:01 配信 当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える!
以下の文献を参考にしました。 ・ルシオ・デ・ソウザ「一六〜一七世紀のポルトガル人によるアジア奴隷貿易」中島学章編『南蛮・紅毛・唐人』(思文閣出版、2013年) ・岡美穂子『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』(東京大学出版会、2010年) ・池本幸三、布留川正博、下山晃『近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で』(人文書院、2003年) ・牧英正『日本法史における人身売買の研究』(有斐閣、1961年) ・安野眞幸『バテレン追放令』(1989年、日本エディタースクール出版部) 岡崎 匡史 日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。 >>西鋭夫講演録[改訂版]「新説・明治維新」 明治維新に秘められた近代日本の秘密とは?
信長が倒れた後、明智光秀を倒して織田家の主導権争いを制して全国を統一したのが 豊臣秀吉 です。 土地を整備して長い間ごちゃごちゃしていた土地制度から生まれた 荘園 を 太閤検地 でなくすことに成功。また、 刀狩 など様々な施策も実行していきます。 これらの制度によって 財政基盤が安定 して 全国一律の土地支配が可能となった 他、農民から武士になるなどが困難となったため 身分制度の礎を築く ことに繋がりました。更に付け加えると、武器を取り上げたことは戦国時代から頻発した 一揆防止 にも一役買ったわけです。 ※荘園が出来た簡単な経緯は『 武士はどのようにして生まれたのか? 』に載ってます。 そんな秀吉の政策のうち海外との絡みで特記することと言えば、バテレン追放令と朱印船貿易、そして文禄・慶長の役が挙げられます。 バテレン追放令とは? 元々秀吉は南蛮交易などに対して寛容だったのですが、1987年6月に突然 キリスト教の布教を禁止し宣教師の国外追放 を命じる バテレン追放令 を出しました。バテレンはポルトガルで『神父』を意味する言葉です。 なぜキリスト教に寛容だった秀吉が意見を急に変えたのか・・・その答えはキリスト教が広がっていた地域に隠れています。 詳説日本史図録 山川出版社より キリシタン大名やイエズス会の教会施設、教育機関などが九州に集中しているのが分かります。 バテレン追放令 が出される2か月前まで秀吉が 九州平定 を行っていたのです。 実はこの九州平定の時に 事実を目の当たりにして秀吉の中にキリスト教への不信感が募るように。 ※ 後述 しますが、当時のヨーロッパでは奴隷貿易が成立していました 一揆が頻発していた戦国時代、特にてこずったのが一向一揆など宗教由来のもの。信徒 (武将含む) を中心とした一揆でしたが、大名が主導したらどうなるでしょうか?? 土地を改修して寄進するほど入れ込んでいるのをみると危機感を持たざるを得ません。最悪、植民地化の足掛かりになりかねないというわけです。そういった事情もバテレン追放令を出した背景にあったと言われています。 が、実際はキリスト教の布教と貿易が切っても切れない関係で宣教師によって貿易が成り立っていたため、徹底したバテレン追放を行うことはありませんでした。 朱印船貿易とは?? 朱印船貿易とは海外渡航許可証である朱印状を持った朱印船を対象として行われた貿易のことです。室町時代の琉球貿易でも行われていましたが、本格的に始まったのは豊臣政権下だと言われています。 上述したように明は日本に対して海禁政策を行っていましたので、朱印状を持った船に限り東南アジアで中国との貿易を行っていました。日本人街が出来ていたほどなので当時の盛況っぷりが想像できます。朱印船貿易は江戸時代に入り鎖国の方針が取られるまで続きます。 文禄・慶長の役とは?
安土桃山の重要な事柄の語呂合わせ テストや受験でよく出題されるポイントや覚えておくべき大きな事柄をピックアップしました。 以後なんな(1577)りと、楽市楽座の令 市や座など組合の特権や市場税を認めず、座などに属さない新規の商人にも自由に商売させた政策で16世紀後半から戦国大名によって実施されましたが、政令として確認できるのは織田信長が安土城下にだした楽市楽座が初めてのものです。 楽市とは座商人の特権廃止や市場税、営業税の廃止、楽座とは座の廃止の事を指します。 十五夜に(1582)はじまる太閤検地 1582年から1598年にかけて行われた検地です。枡を京枡に統一し、一歩を六尺三寸四方、三百歩を一反、田畑を四段階の等級分けにし、年貢負担者を検地帳に記して管理しました。 これにより、荘園制度は解体され、その土地を耕す者が土地を所有する事となり、大名の領地は石高で表され軍事負担などが決められました。 ヒーロー(1600)はだれ?関ヶ原の戦い 東軍、西軍ともに約八万の互角の兵数でしたが、先に関ヶ原に到着していた西軍が有利な陣を構えていたことや、真田家が徳川秀忠の軍を抑えていたことで東軍が不利な状態でした。 ですが合戦が始まると小早川秀秋らの寝返りにより、あっさり東軍の勝利となってしまいました。 ココさえ押さえれば完璧! ?安土桃山時代のポイント POINT. 1 天正遣欧使節とバテレン追放令 南蛮貿易に積極的でキリスト教にも寛容だった織田信長の政権の下、バリニャーノというイエズス会のイタリア人宣教師により計画された 天正遣欧使節(天正遣欧少年使節派遣) で伊藤マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンの四人の少年が今後日本での布教活動の為にヨーロッパへと向かいました。 ヨーロッパ滞在を終え、出発から約八年後に日本に帰国した四人でしたが、日本では政権が豊臣秀吉に移っており、 「バテレン追放令」 というキリスト教規制令が出され、江戸時代に入るとキリスト教に対する風当たりはますます強くなりました。 その後、伊東マンショはマカオへ留学したものの長崎での布教中に病死、千々石ミゲルは棄教、原マルチノは江戸幕府のキリスト教禁止令によりマカオへ追放、中浦ジュリアンは長崎で処刑されました。 POINT. 2 桃山文化 それまでの仏教色の濃い文化とはうってかわり、ヨーロッパ文化の影響を受けた華やかかつ、現実主義的な傾向の強い文化になります。 城は姫路城・松本城・犬山城・彦根城の様な天守閣を備えた大きなものに代わり、千利休が建てたとされる 妙喜庵待庵 といった侘び茶室、 唐獅子図屏風(狩野永徳作) や 智積院襖絵(長谷川等伯作) といった金壁画などが生まれました。 ヨーロッパからは学問の知識や活字印刷の技術、その他美術や数々の製品などが持ち込まれました。パンやカステラ、テンプラ等の外来語もこの時代に日本に持ち込まれ根付いたものです。 POINT.